チャップリンデー・女子マラソンの日・ボーイズビーアンビシャス・トロの日「今日は何の日4月16日」

4月16日火曜日

皆様おはようございます。体調はGOODですか?うがい、手洗い、消毒は欠かさずおこなっていますか?

今日は「チャップリンデー」「女子マラソンの日」「ボーイズビーアンビシャスデー」「トロの日」です。

まず「チャップリンデー」から。

なぜ4月16日が「チャップリンデー」なのかというと、1889年4月16日に20世紀最大の映画作家・喜劇俳優であるチャールズ・チャップリンがイギリスで生まれた事に由来しています。
チャップリンといえば口ひげにだぼだぼとしたズボン、どた靴、ステッキに山高帽という独特の服装をしていましたよね!
あの格好で社会を風刺することによって世界的な人気者となりました。
「モダン・タイムス」や「ライムライト」など数々の名作を世に生み出しました。
コメディ映画を数多く作ったことから「喜劇王」という異名を持っていて、同年代に活躍していたバスター・キートンやハロルド・ロイドと並んで「世界の三大喜劇王」とされています。
今でもチャップリンの熱狂的なファンは数多く残っていますが、「チャップリンデー」を機会にしてチャップリンの作品を楽しんでみてはいかがでしょうか?

喜劇王として人気者のチャップリンでしたが、実は彼の事をよく思わない人物もおり、日本で暗殺が計画されていたという噂があります。
チャップリンが初めて日本を訪れたのは1932年の5月14日のことでした。
歴史に詳しい人ならもうお分かりかもしれませんが、歴史的な事件である五・一五事件の前日ですね。
五・一五・事件によって当時の内閣総理大臣だった犬養毅が暗殺されてしまったわけですが、この暗殺ターゲットにチャップリンも含まれていたのでした。
事件を起こした将校からは「日本に退廃文化を流した人物」として見られていたそうです。
実際に5月15日には犬養毅と面会する予定も入っていましたが、チャップリンは相撲見たさにこの面会をキャンセルしました。
事件発生当時はチャップリンは相撲観戦後の散歩を楽しんでいたそうで、相撲によって暗殺を免れていたのでした。

実はチャップリンは街で行なわれていたチャップリンのモノマネ大会に出場したことがあるんです。
当時はチャップリンの映画がヒットした影響でチャップリンのモノマネが流行した結果、各地でモノマネ大会が開催されていました。
チャップリンは自分の正体を隠して、サンフランシスコの劇場で開かれた大会にお忍びで参加しました。
その結果、なんと本人であるのにも関わらず2位という成績に終わり、モノマネに負けてしまったのです。
この日は映画で見せている衣装とは違う衣装を着ていたことと、メイクもしていなかったことからチャップリン本人とは気付かれなかったそうです。
自身のモノマネ大会に参加して2位に終わるなんて、実にコメディアンらしく面白いエピソードですよね。

*「チャップリン」が生きていたら今のロシアの「ウクライナイジメ」をどのように風刺したでしょうか?

次に「女子マラソンの日」について。

1978(昭和53)年4月16日、東京・多摩湖畔で開催された「女子タートルマラソン大会」が、日本初の女子フルマラソン大会であったことを由来として、この日が「女子マラソンの日」となっています。

大会の主催者は1973(昭和48)年に、中高齢者の健康保持・増進を目的として設立された「日本タートル協会」で、同協会の前身組織「日本高齢走者協会」は1972年から「タートルマラソン全国大会」を開催していました。
「タートルマラソン」(turtle marathon)とは健康維持を目的に、スピードを競わず亀のようにゆっくり走ることをコンセプトとした和製英語です。
タートルマラソンはその後、世界大会や国際大会と銘打って毎年開催され、また、障害者の「バリアフリータートルマラソン」も合わせて開催されるようになり、今では参加者が1万人を超える規模となっています。

現在は男女共通種目としてハーフマラソン、10km、5km、ウォーキング5kmと親子ペア1マイルの5種目が、荒川の右岸で毎年開催されています。
女子マラソンの先駆けとなったタートルマラソンですが、今や男女ともにフルマラソンは全国各地で多く開催されるようになったため、フルマラソンの役目は終了しました。

1978年に東京・多摩湖畔で開催された日本初の女子マラソンには79人が参加し、優勝者は2人の子どもを持つお母さん、外園イチ子さん(当時33歳)で、自身初のフルマラソンを3時間10分48秒で走り抜きました。
高校時代、足の速かった外園さんはご主人の勧めで「横浜市民ロードレース」へ参加し、ほとんど練習もなしで3kmを走り、予想もしなかった5位の好成績を収めたことで、走る意欲に火がつきました。
練習を重ねたその後、1975年の青梅マラソン10kmから外園さんの市民ランナーとしてのキャリアが始まり、1978年の青梅マラソン30kmの優勝に続き、多摩湖畔でも優勝して、女子マラソン史に名を残すことになります。
79年の青梅マラソンを連覇したことで、専門家のアドバイスを受けながら、練習や食事のコントロールなど、本格的なトレーニングを開始した外園さんは、日本各地にとどまらずイギリスやドイツのレースにも参加し、日本の女 子ランナーを代表する存在となりました。
このころになると、フルマラソン大会にも女性の参加が認められるようになり、79年の別府大分毎日マラソンに出場した小幡キヨ子さん(当時22歳)が2時間48分52秒で、完走者252人中173位の成績を収めています。
これによって女子マラソン熱がさらに高まり、1979年には世界初の国際陸連公認の女子マラソン「東京国際女子 マラソン」が開催されることになります。
外園さんは東京国際女子マラソンに参加した翌年、疲労骨折が判明し、同年にフルマラソンへ復帰して完走したものの、以前のような走りができず、大会から退くことになりました。

古代オリンピックでは、”スポーツは男性のもの”という考え方のもと、女性の参加は禁止でした。1896年(明治29年)の第1回アテネ大会も男性のみで行なわれましたが、マラソンには女性ランナーが飛び入り参加しています。ギリシア人のメルポメネという女性で、マラソンへの参加を直訴したものの認められず、他の選手がスタートしたあとに、競技委員の目を盗んで走り出しました。優勝者に1時間半遅れてゴールしましたが、当然その記録は認められることはなく、あまり話題にもならなかったということです。

男性のみの大会であるオリンピックに対して、その後、多くの女性が立ち上がります。1921年(大正10年)には国際女性スポーツ連盟が発足。陸上競技を中心とした女子オリンピック大会が開催されます。1924年のパリオリンピックでの女子陸上競技の実施を求めて、熱心な運動を行ないますが、これも実現せず、1926年(大正15年)に第2回の女子オリンピック大会を開催。女子陸上競技の門戸が正式に開いたのは、1928年のアムステルダムオリンピックのことでした。

このアムステルダム大会では、日本の人見絹枝選手が800mで銀メダルに輝くなど活躍しますが、一方で”800mに参加した女性選手の半数以上がゴール後に倒れた”といったセンセーショナルな報道もされました。そのため、女性にとって中・長距離種目は不適と言われ、再びオリンピック種目から除外されます。その後、1960年(昭和35年)のローマ大会では女子800mが復活しますが、女子マラソンがオリンピック種目となるのは、まだ先のことです。

マラソンレースへの参加を認められず、その後も独自に参加する女性はあとを絶ちませんでした。1963年(昭和38年)、アメリカ・カリフォルニア州で開催されたマラソンレースには2人の女性が参加。役員の制止を振り切り、男子の集団にもぐり込んで走りました。また、1964年(昭和39年)にニュージーランドで行なわれたレースでは、ミルドレッド・サンプソンが3時間19分33秒でゴール。1966年(昭和41年)のボストンマラソンでは、ロバータ・ジブ・ビンゲイが男性選手に紛れて3時間21分40秒で完走します。しかし、いずれも記録として認められることはありませんでした。続く1967年(昭和42年)のボストンマラソンでは、キャッシー・スワイツアーが女性と分からないよう登録名に一計を凝らして、選手証とナンバーカードを手に入れます。スカーフなどで顔を隠して参加した彼女は、途中で女性であることが発覚。役員に制止されますが、かろうじてゴールします。「なぜ女性が出場できないのか」という彼女の訴えに対して、アメリカの体育協会は、国際陸連の規則で男女混合の競技は禁止されている、マラソンは女性としての生理的許容範囲を超えているなどと回答しました。

やがて、女性のマラソン参加への道が開けてきます。1970年(昭和45年)のニューヨークマラソンでは女性の参加が認められ、3児の母であったニーナ・クラシックが出場。翌年の同大会では、オーストラリアのビームス選手が2時間46分30秒のタイムを記録し、世界中を驚かせました。1972年(昭和47年)には、ついにボストンマラソンも女性の部を新設します。この大会では日本出身のゴーマン・美智子選手が2時間47分11秒で優勝。日本でも大きく報じられました。その後、同選手は1976・77(昭和51・52年)年のボストンとニューヨークマラソンでも優勝しています。

1978年、世界初の女性限定マラソン大会として第1回国際女子マラソンがアメリカ合衆国・アトランタで開催され、続いて日本初の女性限定マラソン大会として女子タートルフルマラソン全国大会(多摩湖女子マラソン大会とも)が東京都東大和市で開催されました。

翌年の1979年(昭和54年)には本格的な国際女子マラソンレース「東京国際女子マラソン」が誕生(2008年で終了。2009年からは横浜国際女子マラソンがこれに代わる)。その後、相次いで、大阪国際女子マラソン(1982年)、名古屋国際女子マラソン(1984年)などが開催され、今日に至っています。

1979年の別府大分毎日マラソンでは試験的に女子にも門戸を開放。同年秋にIAAFが公認する史上初の女性限定マラソン大会として東京国際女子マラソンが開催されました。

そしてついに、オリンピックでも女子マラソンが認められる日がやってきます。1984年(昭和59年)のロサンゼルス大会で、女子マラソンが実施されました。初代金メダリストに輝いたのは、アメリカのジョーン・ベノイト選手。2時間24分52秒の好記録で、グレテ・ワイツ選手やロサ・モタ選手をおさえました。日本からは故・永田(旧姓佐々木)七恵選手と増田明美選手が参加しています。

1990年代前半から2000年代前半にかけて、女子マラソン選手がオリンピックや世界陸上競技選手権などの世界的な競技大会で、数多くのメダルを獲得する活躍を見せ、マラソン界において大きな存在感を示しました。2000年(平成12年)のシドニーオリンピックでは高橋直子、2004年(平成16年)のアテネオリンピックでは野口みずきが、連続して金メダルを獲得し、女子マラソンへの注目が高まります。特に、高橋直子は”Qちゃん”の愛称で親しまれ、女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞するなど、マラソン人気の向上にも貢献しました。

当時の日本で取り組まれていたマラソン研究は世界最先端で、1990年代前半以降のオリンピックや世界陸上競技選手権での日本人選手のメダル獲得は、その研究によるものとも言われています。

*最近は男女ともに日本人選手はイマイチですね。是非、頑張ってほしいと願います。

次に「ボーイズビーアンビシャスデー」について。

なぜ4月16日が「ボーイズビーアンビシャスデー」なのかというと、現在の北海道大学農学部である札幌農学校の基礎を築いた人物であるクラーク博士が、「Boys,be ambitious.(少年よ、大 志を抱け)」という有名な言葉を残して北海道を去ったことが由来となっています。
そもそもクラーク博士がどういう人物だったかをご存じですか?
クラーク博士はアメリカ合衆国の教育者であり、化学や植物学、動物学の教師をしていた人物です。
札幌農学校では自然科学について教鞭をとっており、学生たちには聖書を配ってキリスト教の布教活動も行なっていました。
明治時代が始まった当時は欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために「お雇い外国人」を雇用していましたが、クラーク博士もそのうちの一人として雇用されていました。
日本政府の要請を受けて来日して札幌農学校の教頭として約1年ほどの時間を日本で過ごしました。

クラーク博士といえば先ほど説明したとおり「ボーイズビーアンビシャス」つまり「少年よ大志を抱け!」と言ったことで有名ですよね。
しかし、実はこの言葉は省略されていて続きがあったとされています。
省略される前は「Boys,be ambitious like this old man」と発言したとされています。
日本語にすると「少年よ、この老人のように大志を抱け」となります。
つまり「こんな老人でも夢を持って頑張っているのだから君たちも頑張れよ!」と激励を送る言 葉だったということです。
なぜ後半部分が省略されてしまったのかというと、当時は軍国主義教の時代だったため「この老 人のように」といった弱い表現は省略され、「少年よ、大志を抱け!」と力強い言葉となるように都合よく解釈されたのだと考えられています。

学生たちに力強い言葉を残したように、当然クラーク博士も大きな大志を抱いていたのでしょう。
しかし、アメリカに帰国してからのクラーク博士は順風満帆というわけにはいかず、むしろ大志は実らなかったといえます。
帰国後はマサチューセッツ農科大学を3年で辞職しました。
その後「洋上大学構想」という世界中を船で旅をしながら教育するという壮大な構想をしましたが、実際に生徒を募集したところその斬新な発想についていけなかったのか、あまり入学希望者が現れなかったそうです。
結果として「洋上大学構想」は計画倒れに終わりました。
また、カリフォルニアがゴールドラッシュに沸いていたことから「スター・グローブ銀鉱山会社」を設立しましたが、会社を設立してから2年後には銀の価格が暴落したことにより会社は倒産、多額の負債を抱えることになってしまいました。
その後、心臓病を患ったクラーク博士は59歳という年齢でこの世を去ることとなり、大志を抱いたものの実らせることなく生涯を閉じることとなりました。

*皆様は恩師の言葉で「感動した一言」はありますか?

最後に「トロの日」について。

なぜ毎月16日が「トロの日」なのかというと、16日という日付が「トロ(16)」という語呂合わせであることが由来となっています。
「トロの日」については神奈川県横浜市に本社があるカッパ・クリエイト株式会社によって制定された記念日となります。
カッパ・クリエイト株式会社と聞いてもあまりピンとこないかもしれませんが、有名な回転寿司チェーンである「かっぱ寿司」の運営会社といえばわかりやすいですよね。
なぜ「トロの日」を制定したのかというと、人気食材であるトロをお客様に喜んでもらい、かっぱ寿司の各店舗や寿司業界を盛り上げることが目的となっています。
過去には16日限定で中とろが一皿無料で食べられるというサービスが行なわれたこともあったそうです。
寿司を食べるとそこそこお金が掛かってしまいますし、普段からあまり積極的にトロを食べられる機会ってほとんどないですよね。
毎月16日の「トロの日」ぐらいは少し贅沢をして、お寿司屋でトロを食べてその味を楽しんでみるのも良いかもしれませんね。

現在では贅沢品となっているマグロのトロの部分ですが、昔はトロよりも赤身の方が人気だったのです。
日本の食生活は明治維新以降になると一気に変わり、戦後には脂っこいものを好んで食べるようになりました。
しかし、江戸時代のころには基本的に脂っこいものを好んで食べる食生活がなかったことから、サッパリとした赤身の方が好んで食べられていたのです。
また、味だけではなくトロよりも赤身の方が鮮やかな色合いをしているため、その見た目の美しさも赤身が人気だった理由の一つでした。
基本的にトロは売り物にはなりませんでしたが、魚屋は処理に困ったトロの部分を寿司屋に卸すようになり、握りのネタの一つとして使うようになりました。
その後、日本人の食生活の変化などによってトロは人気になっていき、たくさん取れる部位ではないことから希少価値が上がっていったのでした。

お寿司ではキュウリの海苔巻のことを「キュウリ巻き」と呼ばずに、なぜか「カッパ巻き」と呼びますよね。
これはカッパの大好物がキュウリであるという伝説が由来となっているからなんですね。
夏になると様々なお祭りがおこなわれていますが、お供え物としてキュウリが供えられているのを見かける機会があります。
お祭りで神社にお供えされているキュウリは実はカッパに対するお供えものであり、水害がある地域では水神の化身と考えられているカッパに大好物のキュウリをお供えするのです。
それでは、なぜカッパの大好物がキュウリだと考えられるようになったのかというと、キュウリの切り口がカッパの頭に見えることが由来だとされています。
今度お寿司を食べる機会があったら、今回紹介した寿司の雑学をぜひ披露してみてくださいね。

*皆様は「トロ」お好きですか?僕は個人的には「赤身」の方が好きです。

本日もよろしくお願いいたします。

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