1970年代当時、ヨーロッパではポップ・ミュージックが絶対的な人気を誇り、ABBAのような巨大グループが主流ポップの頂点に君臨していました。
しかしその一方で、主流に真っ向から反抗する、新たな世代のアーティストたちが台頭してきます。
その中心にいたのが、政治的かつ草の根的な表現を掲げるパンク・ロックのシーンでした。
当然ながら、こうした動きに対し、主流ポップのアーティストたちはどこか脅威を感じていたのです。
セックス・ピストルズの登場
1970年代半ば、英国におけるパンク第一波の中で最も重要なバンドのひとつが、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)でした。
1975年、服屋でもあったマネージャーのマルコム・マクラーレンによって結成されたこのバンドは、攻撃的な音楽と挑発的なパフォーマンス、そして過激な言動で、ロンドン発の革命的音楽シーンの存在を全国の若者たちに知らしめる存在となりました。
しかし、その評判の悪さ──特に、全国放送で放送禁止用語を連発した『ザ・フィルス・アンド・ザ・フューリー』事件以降、バンドのキャリアには大きな支障が生じました。
英国中の多くの会場が彼らの出演を拒否し、ツアー計画はことごとく地元自治体や施設側によって潰されていきました。
英国内ではツアー不可能──向かった先は北欧
そこで彼らが選んだ選択肢はただ一つ──国外ツアー。
1977年、セックス・ピストルズはノルウェーとデンマークを含むスカンジナビア・ツアーに出発し、その最終目的地がスウェーデン・ストックホルムでの8公演でした。
彼らはその地でも、音楽同様の“無秩序”を撒き散らそうと意気込んでいたようですが、そこでは正反対の象徴──つまり、ABBAとの思わぬ遭遇が待ち受けていたのです。
実はABBAファンだったピストルズ?
意外にも、ピストルズのメンバーたちはABBAのファンでした。
初代ベーシストのグレン・マトロックは「Pretty Vacant」のリフをABBAの「SOS」からインスピレーションを得たと語っており、シド・ヴィシャスもABBAを特に好んでいたそうです。
しかし、その“好意”は一方通行でした。
両者が実際に出くわしたときのことを、ボーカルのジョン・ライドン(別名ジョニー・ロットン)は、The Irish Independent紙にこう語っています:
「スカンジナビアで飛行機が欠航してて、朝から酒飲んでたんだ。でもシドはアルコールに弱かった」。
ABBAに突進し、嘔吐したシド・ヴィシャス
「ABBAを見かけた途端──全員、白い毛皮のコートでまるでシロクマみたいな格好だった──シドが“ABBAだ!”って叫んで走って近づいて行った。
そして、そのまま吐いたんだ」。
この出来事が冗談だったのか、あるいは本気のリアクションだったのかは、当時のシド・ヴィシャスの言動からは判断がつきません。
ですがライドンはこう締めくくっています:
「彼ら(ABBA)は恐怖に凍りついてたよ。
たぶん俺たち、パトカーで連れて行かれたと思う。あの時は警察車両が来たんだ」。
ABBAだけじゃない──クイーンとの一幕も
つまり、スウェーデンにいてさえも、セックス・ピストルズの悪名高いイメージからは逃れられなかったのです。
とはいえ、ヴィシャスが不快にさせたのはABBAだけではありませんでした。
同じ1977年、彼らがアルバム『Never Mind The Bollocks Here’s The Sex Pistols』のレコーディングをしていた際、ポップ・ロック界のスタークイーン(Queen)と遭遇します。
しかし、ヴィシャスがフレディ・マーキュリーに皮肉を言ったところ、フレディはとっさに彼を「サイモン・フェロシャス(Simon Ferocious)」と呼び返したのでした。
もしもABBAがあの時、“ヴィシャスの胃の中身”と対面しなければ、同じように返していたかもしれません。