映画『マンマ・ミーア!』が再びNetflixで配信開始され、多くの人が再視聴し、あれこれ語り出しています。『マンマ・ミーア!』と続編の両方のファンである私としては、いわゆる「父親論争」に一言言いたい。
*画像クレジット:ユニバーサル・ピクチャーズ
正直なところを言えば──「誰が本当の父親か」なんて、どうでもいいんです。確かに多くの人はそれについて議論するのが好きだけど、私は物語の本質を見失っている気がしてなりません。
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『マンマ・ミーア!』における“父親論争”とは?
念のため説明すると、『マンマ・ミーア!』はアマンダ・セイフライド演じるソフィが、母ドナ(メリル・ストリープ)の若き日記を見つけることから物語が始まります。
その日記には、ソフィが生まれる直前の時期にドナが3人の男性と関係を持っていたことが書かれていて、ソフィは自分の父親が誰なのか知るため、3人全員をギリシャでの自分の結婚式に招待します。
3人の“父親候補”は、ピアース・ブロスナン演じるサム、コリン・ファース演じるハリー、ステラン・スカルスガルド演じるビル。
この3人の俳優陣がもう、最高すぎる!
1作目が終わっても、続編の『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』が終わっても、ソフィの実の父親が誰なのかは結局明かされません。
最近では、ピアース・ブロスナンが「第3作でついに明かされるかも」と語ったりもしていますが、私は正直、それは知りたくない派なんです。
確かに、「誰が本当の父親なのか」を考察したくなる気持ちはわかります。
私も最近Redditで、その日の出来事を時系列で分析して“この人が父親では?”と数学的に検証するスレッドを読んだばかりです。
でも私は、観れば観るほど、「父親が誰か」という点に執着するのは物語の本当の魅力を見失っているように感じてしまうのです。
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「父親が誰か」より、もっと面白いことがある
もしこの映画が本気で“ソフィの実父探し”に関心があるなら、3人にDNA検査を受けさせて終わりのはず。
でもそんな展開には一度もなりません。
これはつまり、脚本家たちはそれよりもずっと面白いことがあると分かっていたからだと思うんです。
例えば、ドナの過去の恋人たちがギリシャに集まることで、そこに新しい家族のかたち=”ファウンド・ファミリー(見つけた家族)”が生まれる。その過程のほうがずっと魅力的。
ビルはロージーとくっつくし、ドナとサムは再び恋に落ちる。ハリーにはペトロス(地元の男性)とのロマンスの匂いもある。
そして何よりこの作品が素晴らしいのは、ドナが若い頃に自由で情熱的な恋愛を楽しんでいたことを、作品全体が肯定的に描いているところです。
パートナーがいないまま一人で娘を育てながらも、人生を堂々と生きてきた彼女の姿が、夢のようなミュージカル演出の中で祝福されているんです。
3人の父親、全員が“父”でいいじゃない
もちろん、3人の男性たちそれぞれに「自分が父親かもしれない」という思いはあるはずです。
でも私は、彼らがお互いに仲良くなって、ドナやその周囲の人々とも自然に打ち解けていき、ソフィのことを「娘」として見守っていく姿が本当に大好きなんです。
彼らは誰も実際にはソフィを育てていないし、ドナを妊娠させた後に“逃げた男たち”である可能性すらあります。
でも、ソフィが父を必要としたその瞬間に、3人とも自然に寄り添い、支えようとした──その事実だけで、彼ら全員が“父”なんだと思うんです。
誰か1人が“正解”になるより、ずっと素敵じゃないですか?
私はこれからも“父親論争”には参加しません(笑)
たぶんまた近いうちに『マンマ・ミーア!』を何度目かの再視聴すると思うけど、
私はこの“父親論争”に参加することは、今後もありません。
なぜなら、『マンマ・ミーア!』は──
誰が父親なのかよりも、“みんなで歌って踊って人生を祝うこと”の方がずっと大切な映画だから。
https://www.cinemablend.com/movies/people-argue-who-real-dad-is-mamma-mia-i-think-missing-point