トム・ダン(Tom Dunne)(※):
笑いたければ笑えばいい。でも私は今も自分自身の〈ABBA Voyage〉を楽しんでいる
*(左から)ABBA全盛期のビヨルン・ウルヴァース、アグネタ・フォルツコグ、アンニ=フリード・リングスタッド、ベニー・アンダーソン。
写真:ガス・スチュワート/レッドファーンズ(Gus Stewart / Redferns)
ロンドン東部のクイーン・エリザベス・オリンピック・パークでの3年半にわたる上演期間のなかで、『ABBA Voyage』は実に大きな成功を収めてきた。
これまでに約2億5,000万ポンド(約2億8,400万ユーロ)の収益を上げ、350万人を動員し、地域経済への貢献額は約20億ポンド(約22億7,000万ユーロ)に達したとされている。
そして12月8日、私もその最新の「統計の一人」となった。
22曲の楽曲、衣装替え、10人編成の生バンド、そして「ある年齢以上の男性たち」にとっては、
「誰が一番好きか?」という議論がデジタル/ホログラムの時代にまで持ち越されていることをはっきり証明する内容だった。
もちろん答えはアグネタだ。いや待て、フリーダだ!
いや違う、アグネタだ!
いや、フリーダだ!
正直に言えば、最初は少し半信半疑だった。
ABBAtar(アバター)だの何だの、そしてAI後時代においてホログラムほど早く古びるものはないのではないかと思っていたからだ。
だが公演の中盤に差しかかる頃には、完全に心を打ち抜かれていた。
これは魔法だった。
「恋のウォータールー」(実際の当時の映像付き)や「きらめきの序曲」は、
見事で、感情を揺さぶるものだった。
涙がこぼれた瞬間もあった。
私が最初にABBAを意識したのは1974年、学校の遠足でウェックスフォード・スロブスに行ったときだった。
彼らはちょうどユーロビジョンを制し、バスの中ではその話題でもちきりだった。
私は実際には彼らを見ていなかったが、
日曜紙『サンデー・ワールド』のカラー写真を見て、
自分が何か特別なものを見逃してしまったことを悟った。
一刻も早く家に帰りたかったのを覚えている。
その後の記憶は少し曖昧だ。
私は彼らが一気に世界的スターになったのだと思い込んでいたが、実際はそうではなかった。
彼らはブライトンのグランド・ホテル、ナポレオン・スイートで成功を祝っていたが、
そこから10年後、IRAがマーガレット・サッチャー暗殺未遂を起こすことになるあの場所だ。
しかし当時、ABBAの名声はその部屋の外まではほとんど届いていなかった。
続くシングル「リング・リング」は失敗作に終わった。
「一発屋」という言葉が飛び交い、
作曲家のベニーとビヨルンは
「どうすれば、もう少しスウィートみたいになれるだろうか」と頭を悩ませていた。
「マンマ・ミーア」はブラザーフッド・オブ・マンに提供され、断られている。
人類は、あの時とんでもない危機を回避したのだ。
1974年が1975年に移り変わる頃、
ABBAのことを語る者はほとんどいなかった。
彼らが再びチャートに戻ってくるのは、1975年後半のシングル「S.O.S」を待たなければならない。
「マンマ・ミーア」がこれに続き、
1976年には『グレイテスト・ヒッツ Vol.1』が、
シングル「悲しきフェルナンド」を引っ提げてリリースされ、
パンクが台頭し始めるなかでも、彼らは何とか生き残っていた。
だが、1976年10月に『アライヴァル』が発売された瞬間、
それは本当の意味での「到着」を告げるものだった。
「マネー、マネー、マネー」や再収録された「悲しきフェルナンド」も素晴らしかったが、
「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」と
「ダンシング・クイーン」は次元が違った。
「ダンシング・クイーン」は、ラジオから溢れ出していた。
1977年には全米1位を獲得し、
どこに行っても耳に入ってくる、避けようのない存在だった。
*『ABBA Voyage』の過去3年半にわたり、350万人の観客を魅了してきたABBAtars(ABBAのアバター)。
『アライヴァル』は1977年最大のセールスを記録したアルバムだった。
時代精神(ツァイトガイスト)は、
パンク、ディスコ、そしてABBAのものだった。
個人的には、その頃すでに私はパンクにどっぷり浸かっていた。
だが7インチ盤の「ニュー・ローズ」を買うとき、
その裏にこっそり「ノウイング・ミー」のピクチャースリーブを忍ばせていた。
これは私の秘密だった。誰にも知られる必要はなかった。
1982年の晩秋、
スティーブンズ・グリーンのレコード店にいたとき、
「アンダー・アタック」が流れてきた。
私はそれが彼らの最後のシングルだと直感した。
当時の世界は、
コステロの「インペリアル・ベッドルーム」、
ザ・クラッシュの「コンバット・ロック」、
ABCの「レキシコン・オブ・ラヴ」といった作品に満ちていて、
その中でABBAはどこか場違いに見えた。
それでも私は彼らを愛していた。
自分の青春の一部が終わろうとしていることを、私は理解していた。
1990年代にABBAのトリビュート・バンドが急増したことは、私にとって驚きではなかった。
ただ、その「冗談」や「皮肉」が、私には理解できなかった。
これは、レノン=マッカートニーやモリッシー=マーのコンビに匹敵する作曲家デュオによる、
本物の名曲群だったのだから。
異論は認めるが、そう言うなら外で勝負しようじゃないか。
私はこの密かな愛を、ずっと胸にしまっていた。
それが変わったのは、約10年前にジョン・グラント(Queen of Denmarkで知られる)にインタビューしたときだ。
「壁にポスターは貼ってる?」と私が聞くと、
彼はこう答えた。
「ニナ・ハーゲン(ドイツのパンクの女神)とABBAだけだよ」。
「もっと詳しく聞かせてくれ」と言うと、
彼は語ってくれた。
それ以来、私は振り返っていない。
ショーを楽しみ、再びフリーダにときめき、
楽曲がどれほど驚くほど緻密に作られているか、
声がどれほど自然に溶け合っているかを思いながら、
私の思考は別の方向へと漂っていった。
『ABBA Voyage』は、彼らが示唆しているように来年5月で終わるのか?
それとも、まだ始まったばかりなのか?
AI技術の進歩は、すでにVoyageのテクノロジーを追い越している。
再設計されたAIアバターは、
2022年版を石器時代の遺物のように見せるだろう。
そして2026年、パンク50周年を前にしての大きな問いがある。
セックス・ピストルズのアバター公演があったら、あなたは行くだろうか?
そう、私もだ。
いくらでも払うさ。値段を言ってみろ、って話だ。
※トム・ダン(Tom Dunne)は、アイルランドを代表する音楽・カルチャー系ジャーナリスト/コラムニストです。
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トム・ダン(Tom Dunne)とは
- 国籍:アイルランド
- 職業:音楽評論家、コラムニスト、エッセイスト
- 主な分野:
- ロック/パンク
- ポップ・ミュージック
- 世代論・カルチャー批評
評論家としての特徴
- 一人称で人生と音楽を重ねる文体
- パンク世代としての視点を持ちながら、
ABBAを「本物のソングライティング遺産」として高く評価 - ABBAを
レノン=マッカートニー級の作曲家コンビ(ベニー&ビョルン)
と位置づける、明確でブレない批評姿勢
ABBAとの関わり
最近話題になった
「Scoff if you want, but I’m still enjoying my own Abba voyage」
では、
- 少年時代のABBA体験
- パンクに傾倒しながらも捨てきれなかったABBA愛
- 現在の ABBA Voyage 体験
を重ね合わせ、
ABBAを“懐古”ではなく“現在進行形の文化”として描写しています。
ひと言でまとめると
トム・ダンは、音楽を通して世代・記憶・人生を語る、アイルランドの良心的カルチャー・コラムニストです。
https://www.irishexaminer.com/lifestyle/artsandculture/arid-41761220.html


