《独占》ABBAスター、フリーダ・リングスタッドが80歳に
その“貧困から富へ”の物語を振り返る
*フリーダは、アグネタ、ベニー、ビヨルンとともに、世界で最も愛されているバンドの4分の1を担う存在である(Sjöberg Bildbyrå/ullstein bild 経由 Getty Images)。
11歳でステージデビューを果たしたABBAのスター、フリーダ。
その後に世界的スターになるとは、当時は誰も想像できなかっただろう。
「私は今年80歳になります」。
今年初め、ABBAアバター・コンサート「ABBA Voyage」の最新公演に姿を見せたアンニ=フリード・リングスタッドは、観客に向かって誇りをこめてそう宣言した。
彼女はロンドンで行なわれた大成功のABBAター公演にサプライズで登場し、
50年以上にわたって途切れることのないファンの愛と応援への感謝を示したのだ。
「マンマ・ミーア」「SOS」「テイク・ア・チャンス」など数々の大ヒットを世界に届けてきたスウェーデンのチャートトップバンドの歌姫が、今日、80歳という“8つ目の10年”に到達したとは信じがたい。
アンニ=フリード、つまり“フリーダ”として世界中のファンに知られる彼女の人生は、まさに「喜びの時も悲しみの時も」——彼らの楽曲「ザ・ウェイ・オールド・フレンズ・ドゥ(The Way Old Friends Do)」の歌詞そのものだ。
実際、彼女の“貧困から大富豪へ”という人生物語(現在までに推定2億2,000万ポンドの資産を築いたとされる)はあまりに劇的すぎて、バンド仲間のビヨルン・ウルヴァースはかつて「ミュージカルか舞台にできるレベル」と冗談交じりに語ったほど。
ビヨルンいわく:
「4人の中で、フリーダの人生がいちばんドラマチックだ。典型的な“貧困から成功へ”の物語だよ。シーンの数々やクリフハンガーが目に浮かぶようだ」。
今日は、これまでの年代ごとにアンニ=フリードの人生を祝福し、こう伝えたい。
「歌も踊りもなければ、私たちは何でしょう? 私に音楽を与えてくれてありがとう」。
1945年
アンニ=フリード・シンニ・リングスタッドは、ノルウェーのビョルコーセンで生まれる。
若い母シンニは、ナチス占領期にそこで駐留していたドイツ軍SS将校アルフレッド・ハーゼとの関係で妊娠した。
ハーゼはドイツへ帰還し、母シンニは彼が帰り道に船の沈没で亡くなったと誤って信じることになる。
娘フリーダの父親が“戦争の子”であることを知られ、地元コミュニティから疎外された母と祖母アルンティーネは、スウェーデンのエスキルストゥナ近郊トーシェラへ移住。
しかしフリーダが2歳になる前、母シンニは腎不全のため21歳の若さで死亡。
“孤児”となったフリーダは、祖母が引き取り、掃除婦、仕立て屋、皿洗いをしながら育ててくれた。
*1950年代、少女時代のアンニ=フリード・リングスタッド(Sjöberg Bildbyrå/ullstein bild 経由 Getty Images)。
1956年
すでに音楽への興味は強く、11歳でチャリティイベントの舞台に立ちステージデビューを果たす。
トーシェラの学校では、「明るく優秀な生徒」で、同年代より高い成績を取ることが多かったと同級生は語る。
のちに「母も父もいないまま育つこと」をどう感じていたか尋ねられ、
フリーダはこう答えている:
「10代になると、周りの子たちは皆両親がいて、もちろん不公平に感じることもありました。でも私たちは“与えられた人生”を生きるしかないし、生きられる人生はただ一つ。それを受け入れるしかないのです」。
1964年
幼なじみであり同じジャズバンドでベーシストとして活動していたラグナル・フレドリクソンと結婚。
2人の間には2人の子ども(1964年にハンス、1967年に娘アン・リーズロッテ)が生まれる。
そしてフリーダが人生を大きく変える決断を下す。
1967年、彼女はスウェーデンのテレビタレントコンテスト 「ニュア・アンスィケテン(新しい顔)」 に出場し、バラード曲「En Ledig Dag(休日)」で優勝する。
優勝の副賞は、テレビ番組「Hylands Hörna」への出演。
その後、EMIとレコード契約を結び、スウェーデン語のソロアルバム『Frida』を発表。
1969年には、当時ザ・ヘップ・スターズのメンバーだったベニー・アンダーソンと出会い、2人は友情を深めていく。
*1974年、ブライトンのロイヤル・パビリオン前でのABBA(mirrorpix)。
1974年
ベニー、そしてスウェーデンの人気アーティスト同士の夫婦
アグネタ・フォルツコグ(成功したソロ歌手)とビヨルン・ウルヴァース(スキッフルバンド「ザ・フーテナニー・シンガーズ」メンバー)と共に、
彼らは「ABBA」を結成する。
そしてブライトンで開催されたユーロビジョンに「恋のウォータールー」で参加し、優勝を果たす。
彼女はその勝利についてこう振り返る。
「信じられませんでした!私はエスキルストゥナ出身の元バンド歌手にすぎなかったのに、BBCやヨーロッパ中の大手新聞社が、私たちがどう感じているかのインタビューを求めて押し寄せてきたのです」。
この頃フリーダはラグナルと離婚しており、ベニーと婚約中だった。
そしてマネージャーのスティッカン(スティッグ)・アンダーソンの支えもあり、
彼らは世界的成功を収めていく。
フリーダはメゾソプラノの声で「悲しきフェルナンド(Fernando)」「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー(Knowing Me, Knowing You)」「アイ・ハヴ・ア・ドリーム(I Have A Dream)」「マネー、マネー、マネー(Money, Money, Money)」「スーパー・トゥルーパー(Super Trouper)」など多くの曲でリードボーカルを担当した。
最大のヒットの一つ「ダンシング・クイーン(Dancing Queen)」について、彼女はこう語る。
「初めて聴いたとき、涙が出ました。あれは傑作です」。
ABBAは多数の1位アルバムを発表し、ヨーロッパ、オーストラリア、北米をツアーする。
1978年、フリーダとベニーはついに結婚。
そしてABBAの絶頂期、フリーダに「生きていた父親」から連絡があり、
二人は感動的な再会を果たす。
しかしフリーダはこうも語る。
「もし私が子どもだったら違ったと思います。でも32歳になってから父親が現れても、簡単には心をつなぐことはできません。子どもの頃に一緒に過ごしていたら抱けていたような愛情は、正直、感じられないのです」。
1982年
ABBAが活動休止に入った後、フリーダはソロ活動を開始する。
バンド内の関係性は変化していた——
2組のカップルは離婚し、音楽は以前よりずっと暗いものになっていた。
ベニーとの別れについて彼女はこう振り返る。
「たくさん泣いて、たくさん話し合いました。でも戻る道はありませんでした。別れることが“必要”になったのです」。
また、アグネタとの不仲報道を打ち消すためにも彼女は語っている。
「一緒に遊ぶ時間はそんなに多くはなかったけれど、深い絆がありました。私たちの間に本当のライバル意識なんてありません。長い年月を共に働く中で、その絆はより深くなりました」。
ABBAから自由になり、パンク風のショートヘアになったフリーダは、
1982年にフィル・コリンズのプロデュースでアルバム『Something’s Going On』を発表。
続いて1984年にはスティーヴ・リリーホワイトのプロデュースで『Shine』をリリース。
1989年、フリーダの父が89歳で亡くなったという知らせが届く。
1992年
1992年、フリーダはプラウェン侯ハインリヒ・ルッツォ・ロイスと結婚。
二人はスイスの城で暮らした。
また、10年以上ぶりの新作となるスウェーデン語アルバム『Djupa Andetag(深い息)』を発表する。
しかし彼女に悲劇が襲う。
1998年、娘アン・リーズロッテがニューヨークで悲惨な交通事故に遭い、30歳で死亡。
そのわずか1年後の1999年、夫ルッツォが49歳でがんにより死去。
後年のインタビューで、彼女は深い悲しみとどう向き合ったか語っている。
「何かを信じるものが必要でした。そうでなければ、とても耐えられなかったと思います。喜びを取り戻すまでには長い時間がかかりました。本当に長い年月、計り知れない悲しみの中にいました。生きていくことすら難しいと感じるほどでした。とても辛い旅路でした」。
2004年
しばらく表舞台から遠ざかっていたフリーダだが、公の場に再登場し、
友人でディープ・パープルのメンバー、ジョン・ロードが彼女のために書いた新曲
「The Sun Will Shine Again」を披露する。
この「喪失の後の希望」を歌った曲に、フリーダは深く心を打たれた。
「鳥肌が立ちました」。
そしてこの曲は、彼女にとって良い兆しとなったようだ。
2007年、フリーダはWHスミス創業家の相続人である
ヘンリー・スミス(第5代ハンブルデン子爵)と出会い、交際を始める。
彼女は彼を
「私の支え、友、そして晩年の愛」と呼び、
二人はスイスで生活を共にしている。
2018年
ABBAワールド展(ロンドン)、ABBAミュージアム(ストックホルム)、
映画『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』のロンドンプレミアなど、
大きなイベントに姿を見せていたフリーダ。
その裏で、フリーダはベニー、ビヨルン、アグネタと秘密裏に会い、
新しいプロジェクトについて話し合っていた。
それは、ステージ上に彼らの“デジタル版”が登場するという
ハイテク・コンサートの計画だった。
2018年4月、ABBAは
「ABBAアバター・ツアープロジェクトを始動する」
と発表し、新曲「アイ・スティル・ハヴ・フェイス・イン・ユー(I Still Have Faith In You)」「ドント・シャット・ミー・ダウン(Don’t Shut Me Down)」を公表。
インターネットは大騒ぎとなった。
2021年
パンデミックとロックダウンにより、“ABBAtar”プロジェクトは遅れる。
しかし、ファンの知らぬところで彼らは大きなサプライズを準備していた。
——ABBAは40年ぶりの新アルバム『Voyage』を録音していたのだ。
2021年秋、アルバムは大絶賛をもってリリースされ、
そして2022年5月にはロンドンで「ABBA Voyageショー」が開幕。
現在も大成功を続けている。
股関節の手術後、杖をつく姿が見られることもあるフリーダは、
このスペクタクルを何度も訪れ、こう語っている。
「舞台にいるのが自分でないなんて信じがたいのに、
それでも“私”なのです。
身振り、表情、目の動き——すべてに自分を感じます。
不思議ですが、本物なのです」。
2024年5月、フリーダを含む4人のメンバーは、
スウェーデン国王より“ヴァーサ勲章(叙勲)”を授与された。
*今年初め、ABBA Voyage 3周年記念イベントでのベニーとフリーダ(James Drew Turner)。
2025年
もうすぐ80歳の誕生日をパートナーのヘンリー、そして親しい友人たちと祝おうとしているフリーダ。
彼女は、自分の歩んできた人生についてこう語る。
「私は本当に強い女性です。そう気づきました。
そして私は神を強く信じています。
実際、その信仰が私を支えてくれたのです」。
ABBAの物語がここで終わりかどうかはわからない。
「考えてみてください、私たちはもう若くありません。でも、何が起きるかはわかりません」。
だが一つだけ確かなことがある。
ABBAの遺した音楽と記憶は、生涯彼女とともにある。
「ABBAは永遠に私の一部です。
私の人生の大きな部分を占めています。
ABBAを通して、音楽を通して、幸せな時間を通して、
私は多くのことを学びました。
それらは私の心に深い痕跡を残しました」。
心優しいフリーダからのお願い
誕生日に贈り物を送らないでほしい、
その代わり、望むなら
- 国境なき医師団(Läkare Utan Gränser / Médecins Sans Frontières / Doctors Without Borders)
- UNICEF
など、彼女が大切にしている慈善団体への寄付をしてほしいと呼びかけている。
https://www.mirror.co.uk/3am/celebrity-news/abba-star-frida-lyngsta-turns-36250478






