25位
「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」(1977年)
「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」は、1976年3月23日にレコーディングされていたにもかかわらず、
シングルとしての発売は1977年2月16日まで待たされました。
これは、ABBAが他にも即リリース可能な楽曲を数多く抱えていたことへの自信を示しています。
この曲は、アルバム『アライヴァル』のために最初に録音された楽曲で、
1977年4月に全英チャートで5週間連続1位を記録しました。
タイトルはスティッグ・アンダーソンの提案によるものですが、
ビヨルン・ウルヴァースは、
「もう私たちにできることは何もない。今回は本当に終わりだ」
と悟るカップルの失恋への道筋を、歌詞として丁寧に描き出しました。
ラッセ・ハルストレムによるプロモーション・ビデオは、
シンプルながら非常に効果的な演出で知られています。
4人のメンバーが向かい合って歌い、
新しい歌詞の行に入るたびに互いに背を向けるという構成です。
ラストでは、スウェーデンの深い雪の中を、
アグネタとフリーダがベニーとビヨルンから悲しげに離れて歩いていきます。
この結末が、同ビデオをポップ史に残る最も象徴的な映像作品のひとつに押し上げました。
24位
「テイク・ア・チャンス」(1978年)
曲冒頭のア・カペラによるヴォーカルからして、「テイク・ア・チャンス」は王道のポップ・ソングです。
歌い手は、想いを寄せる相手に対して、用心深さを捨てて「思いきってチャンスに賭けてみて」と呼びかけます。
多くのABBA楽曲と同様、この曲も無駄なく核心に切り込む構成になっています。
特に、ビヨルン・ウルヴァースがスティッグ・アンダーソン抜きで歌詞を書くようになって以降、その傾向はいっそう顕著になりました。
ベニー・アンダーソンとビヨルン・ウルヴァースの共同作業は、決して明確に役割分担されたものではありませんでしたが、
概ね、ビヨルンが歌詞の大半を担当し、ベニーが音楽面の中核を担うという形でした。
そしておそらく、この曲におけるABBAならではの決定的な“サイン”――
すなわち、楽器がヴォーカルに“応答する”演出を考え出したのも、
ベニーだったのでしょう。
ここでは、
「It’s magic(それは魔法みたい)」
というフレーズの直後に、
“魔法的”なうねりを持つシンセサイザーのフレーズが続き、
歌と演奏が会話するように絡み合う瞬間が生まれています。
23位
「サマー・ナイト・シティ」(1978年)
1978年5月、ABBAはストックホルムに最先端の自前レコーディング・スタジオ(ポーラー・スタジオ)をオープンしました。
メトロノーム・スタジオで録音された初期のバッキング・トラックをもとに、
このポーラー・スタジオで最初に本格的に制作された楽曲が、
ディスコ色の強い「サマー・ナイト・シティ」でした。
ベニー・アンダーソン、ビヨルン・ウルヴァース、マイケル・B・トレトウの3人は、
満足のいくミックスを作るために1週間を費やしましたが、
なかなか納得できる仕上がりには至りませんでした。
最終的に採用されたミックスでは、
曲の冒頭にあった45秒間のヴォーカル、ストリングス、ピアノによるイントロ部分がカットされ、
より即効性のある展開が重視されました
(ただし、このイントロは1979年のワールド・ツアーでのライブ演奏では復活しています)。
トレトウの耳には、この編集はあまりにも露骨に聞こえたといいます。
後にビヨルンも、このレコーディングについて
「出来が悪く、リリースすべきではなかった」
と語っています。
しかし、一般のリスナーはそうは感じませんでした。
「サマー・ナイト・シティ」は、1978年9月に全英チャート5位を記録するヒットとなったのです。
22位
「ヴーレ・ヴー」(1979年)
常に音楽的進化を続けていたABBAは、6作目のアルバム『ヴーレ・ヴー』で、
ファンクやディスコへの本格的なアプローチを試みました。
多くの楽曲がダンス・ビートを基調とし、
従来よりも演奏時間が長めに設定されています。
1979年2月、次作アルバムのための楽曲制作と準備を行なうため、
ベニー・アンダーソンとビヨルン・ウルヴァースはバハマに滞在していました。
そこでは、当時のスウェーデンでは一般に入手できなかった
さまざまな音楽に触れることができたのです。
そこで受けた刺激から、2人は
「ヴーレ・ヴー」と「キッシィズ・オブ・ファイア」を書き上げるほどに触発され、
そのままマイアミへ飛び、
ビージーズが1970年代半ばに数々のヒットを生み出したことで知られる
クライテリア・スタジオを予約しました。
そこで「ヴーレ・ヴー」の基本トラックが録音され、
その音源はスウェーデンへ持ち帰られて完成に至ります。
この曲のシングルには、
同じくダンス色の強い楽曲である
「エンジェルアイズ」がカップリングとして収録されました。
21位
「イフ・イット・ワズント・フォー・ザ・ナイツ」(1979年)
マイケル・トレトウ(エンジニア)は、
マイアミのクライテリア・スタジオで行なわれる作業が、
ストックホルムのポーラー・スタジオの機材と確実に互換性を保てるよう、
スウェーデンから空輸されました。
現地では、名プロデューサーのトム・ダウドと共に作業が行なわれ、
バック演奏はディスコ・バンドのフォクシーが担当しました。
「ヴーレ・ヴー」に加え、
「イフ・イット・ワズント・フォー・ザ・ナイツ」の新バージョンも試みられましたが、
この試みはうまくいきませんでした。
後にベニーはこう振り返っています。
「この曲は、ヴァース部分に風変わりなコード進行があまりにも多くて、
彼らが普段慣れ親しんでいるグルーヴに乗るのが難しかったんだ」。
しかし、この時期のライブ公演では、
「ヴーレ・ヴー」で幕を開け、
そのまま「イフ・イット・ワズント・フォー・ザ・ナイツ」へと切れ目なくつなぐ構成が採られていました。
この流れは、
ABBAがディスコを誰にも劣らず書き、演奏できることを
はっきりと証明するものとなったのです。
<続く>





