なぜベトナムでは大晦日にABBAを聴くのか?

1980年のスウェーデン・ポップ・ソングが、ベトナムの“非公式”ニューイヤー・アンセムになった理由。そこには、戦後の感情、旋律、そして意外な外交の物語がある。

*ABBAの「ハッピー・ニュー・イヤー」ミュージックビデオ。
出典:IMDb

大晦日の夜、ベトナムの空に花火が打ち上がると、街角から、商店のスピーカーから、家族の集まりやテレビのカウントダウン番組から、あるおなじみのメロディーが流れてくる。
それはベトナムの民謡でも、近年の世界的ヒット曲でもない。1970年代を象徴するスウェーデンのポップ・グループ、ABBAによる、ほろ苦いバラード——「ハッピー・ニュー・イヤー」だ。

不思議なことに、この曲はベトナムにおいて、新年を迎える際の儀式のような存在になっている。

カラオケ店、教室、ラジオ番組、さらには病院や学校が制作する送別ビデオにまで使われるほど、「ハッピー・ニュー・イヤー」は季節を象徴するアンセムとなった。
しかし、なぜ遠いヨーロッパのバンドによる、どこか憂いを帯びた曲が、これほど深くベトナムの文化的記憶に根付いたのだろうか。

その答えは、歴史、外交、そして思いがけない感情的共鳴が交差する地点にある。

パーティーの翌朝

「ハッピー・ニュー・イヤー」が録音されたのは1980年。かつて2組の夫婦だったABBAが、次第に崩れ始めていた時期だった。
アグネタビヨルンの離婚、続いてベニーフリーダの別離は、グループ後期の音楽に長い感情の影を落とした。

この曲は、明るいピアノの和音と祝祭的なタイトルで始まるが、歌詞が語るのはまったく別の物語だ。
「もうシャンパンはない 花火も終わった
ここにいるのは 君と僕
迷い 憂うつな気分で」。

これは祝杯の歌ではない。
パーティーが終わった翌朝の静けさ、悲しみ、不安、そしてかすかな希望を描いた曲なのだ。

当時の世界情勢——世界的な景気後退、政治的不安定、そして戦争のトラウマがなお残る時代背景の中で、この曲は「岐路に立ち、次の10年がどうなるのか分からない」という感覚を見事に捉えていた。

リリース当初、「ハッピー・ニュー・イヤー」は大きな注目を集めなかった。ヨーロッパのチャートでは控えめな順位にとどまり、シングルとして正式に発売されたのは、世界が新たなミレニアムを迎えた1999年、実に約20年後のことだった。
しかし、ベトナムでは、この曲は不思議なほど“しっくりくる居場所”を見つけたのである。

*ベニー・アンダーソン(キーボード/シンセサイザー/ピアノ/パーカッション)、
アグネタ・フォルツコグ(リード・ボーカル/バック・ボーカル)、
アンニ=フリード“フリーダ”・リングスタッド(リード・ボーカル/バック・ボーカル)、
ビヨルン・ウルヴァース(リード・ギター/リード・ボーカル/バック・ボーカル)。
出典:One Track At A Time

スウェーデンとベトナム――希少な友情

「ハッピー・ニュー・イヤー」がなぜベトナムでこれほど愛されるようになったのかを理解するには、ベトナムとスウェーデンの特異な外交関係に立ち戻る必要がある。

1975年のベトナム戦争終結後、ベトナムは厳しい戦後期を迎えた。アメリカは1990年代半ばまで続く貿易禁輸を課し、多くの西側諸国もこれに追随した。その結果、ベトナムの国際関係は限定され、ソ連、キューバ、東欧諸国といった社会主義国との関係が中心となった。
これらの関係は自由な選択というより、冷戦下の地政学、イデオロギーの分断、そして当時の限られた外交選択肢によって形作られた“必要の産物”だった。

その中で、スウェーデンは極めて珍しい例外だった。
1969年、世界的に反戦の機運が高まる中、スウェーデンは西側諸国としていち早く、当時のベトナム民主共和国(北ベトナム)と正式な外交関係を樹立した。これは1975年の国家統一よりもはるか以前のことであり、単なる象徴的行為ではなかった。

その後の数十年にわたり、スウェーデンはベトナムの復興に多大な投資を行ない、ハノイの国立小児病院や、バイバン製紙工場といった大規模なインフラ・医療プロジェクトを支援した。
とりわけ製紙工場のプロジェクトは非常に大規模で、木造キャビンやサウナ施設を備えた“スウェーデン風の村”が、ベトナム北部に誕生するほどだった。スウェーデン人の専門家たちは何年もそこで暮らし、やがて現地の家族と定住する人もいた。

*1980年、製紙工場の建設中に撮影された、フートー省の地元住民とスウェーデン人専門家たちの様子。
出典:VnExpress

*1979年夏、バイバンにあった「スウェーデン村」の様子。
出典:VnExpress

そして、技術者や医師たちとともに、もう一つのものが持ち込まれた——音楽である。
カセットテープやラジオに乗って運ばれてきたABBAの楽曲は、「禁止された西側ポップ」ではなく、信頼できる同盟国からの文化的贈り物としてベトナムに入ってきた。

多くの外国音楽が制限されていた時代において、ABBAは例外だった。彼らの鮮やかな衣装と軽快なリズムは、配給制度と薄暗い街灯の向こうにある、より色彩豊かな世界を垣間見せてくれた。

誤解されたメッセージか、それとも完璧な一致か?

興味深いことに、1980年代の多くのベトナム人リスナーは、英語もスウェーデン語も理解していなかった。
個人的な失恋、理想の喪失、未来への不安といった、歌詞に込められた深い悲しみは、ほとんど気づかれなかった。

彼らが耳にしていたのは、心地よく高揚感のあるメロディー、「ハッピー・ニュー・イヤー」と繰り返されるサビ、そして調和の取れた歌声だった。
戦争から立ち直り始めたばかりで、不確かな未来に直面していた国にとって、それだけで十分だったのだ。

しかし時が経ち、翻訳が広まり、歌詞の意味が理解されるようになると、この曲はさらに深く共鳴するようになった。
なぜなら「ハッピー・ニュー・イヤー」は、すべてがうまくいっているふりをする歌ではないからだ。
迷いを認め、未知の未来に向き合いながらも、平和やつながり、そして前に進む勇気を願う歌なのである。

その“悲しみと希望の二面性”は、戦後ベトナムの感情風景と重なり合った。
何十年にもわたる戦争を経て、進むべき道はまだ見えなくとも、再建し、再びつながり、再生を信じようとする国の姿と。

結局のところ、「ハッピー・ニュー・イヤー」はABBAだけのものではない。
その音に慰めを見いだす、すべての人のものなのだ。

ベトナムにおいて、この曲は常に、より深い意味を持ってきた。
それは一年の節目に立ち止まり、静かに振り返り、次の一年へ踏み出す前の、ひと呼吸の時間である。

そしておそらく、それこそが音楽の美しさなのだ。
悲しくもあり、喜びに満ち、そして希望をも抱く——そのすべてを、同時に宿すことができるのだから。

*Totally Vinyl

https://vietcetera.com/en/why-vietnamese-listen-to-abba-every-new-years-eve

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