『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ・ゴー』──ABBAの名作ミュージカルがブロードウェイに戻る前に、その舞台裏を知ろう
『マンマ・ミーア!』がブロードウェイのウィンター・ガーデン・シアターで初演されたのは、もうすぐ25年前のこと。そして最後のカーテンコールからは、ほぼ10年が経ちました。けれど、この夏──『マンマ・ミーア!』が“帰ってきます”。
ここでは、この小さなABBAジュークボックス・ミュージカルが、いかにして思いがけず国際的な大ヒット作となったのか、その舞台裏を深掘りします。
*『マンマ・ミーア!』オリジナル・ブロードウェイ・キャストにて、
カレン・メイソン(ターニャ役)、ルイーズ・ピトル(ドナ役)、ジュディ・ケイ(ロージー役)
(写真:ジョーン・マーカス/ニューヨーク公共図書館)。
■ 運命の出会い(That’s Her Destiny)
1980年代、プロデューサーのジュディ・クレイマーは、ミュージカル『CHESS』の制作で、ABBAの創設メンバー、ビヨルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンと出会い、共に仕事をする機会を得ました。クレイマーは「2人に出会った瞬間に夢中になった」と語り、いつか彼らと一緒に作品を作ることを決意します。
早い段階でクレイマーは、ABBAの楽曲にはすでに演劇的な物語性があることに気づいていました。ミュージカルを作るアイデアは、1980年のアルバム『スーパー・トゥルーパー』のリードシングルであり、ビヨルンが元妻アグネタ・フォルツコグとの離婚後に書いた失恋のバラード「ザ・ウィナー」から始まりました。
クレイマーは、2023年の『ヴォーグ』誌のインタビューでこう語っています:
「私はこれまで付き合ったすべての元カレに“ザ・ウィナー”を歌ってやりたいと思ってたの(笑)。プロットができるずっと前から、この曲が毎晩観客を恍惚とさせる“11時(23時)のバラード”になるって分かってた」。
■ チャンスをちょうだい(Take a Chance On Me)
クレイマーが情熱を注いでいたにもかかわらず、ミュージカル化には説得が必要でした。最初、彼女はABBAの曲をゆるく題材にしたテレビ特番を2人に提案しましたが、当時はニューロマンティックやニューウェーブ全盛期。ユーロポップへの批判を懸念して、彼らは首を縦に振りませんでした。
ところが1992年、ベストアルバム『ABBA Gold』の発売によりABBAの楽曲は再評価され、新旧ファンに“この上なく洗練されたポップソング”として再び愛されるようになります。
クレイマーの粘り強い説得の末に、ビョルンとベニーは「適切な脚本家がいれば可能性はある」と同意。そうして選ばれたのがキャサリン・ジョンソンでした。
■ ドリームチームの誕生(Dream Team)
クレイマーが思い描いたのは、ABBAの初期の若々しい曲から、後期の成熟したテーマへのトーンの変化を反映させた、世代を超えたミュージカルでした。
ジョンソンは、「娘の結婚式を前にした母娘の物語にしたらどう?」と提案。
「娘が結婚するんだけど、父親が誰か分からない。しかも候補が3人いるって話はどう?」とジョンソンが言うと、クレイマーは「今すぐ座って」と言ったそうです。
次に加わったのが、英国の演出家フィリダ・ロイド。当初は商業的なミュージカルに関心はなかったものの、クレイマーとジョンソンとの「素晴らしい出会い」に心動かされました。
ロイドは「私たちは皆、同世代の女性で、すぐにユーモアのセンスが合った」と語っています。
クレイマーは2017年のインタビューでこう話しています:
「3人の女性が、こんなに商業的成功を収めた作品の中心にいるのは珍しいことでした。でも『マンマ・ミーア!』にぴったりなんです。物語にも3人の強い女性が登場しますし、みんな性格が違うんですよ。ちょっとおせっかいで、ちょっと混乱してて、現実的で、高い理想を持っていて…」。
*ジュディ・クレイマー、キャサリン・ジョンソン、フィリダ・ロイド
(写真提供:リトルスター)。
■ オープニング・ナイト(Opening Night)
初期の仮タイトルは『サマー・ナイト・シティ』で、1999年のロンドンプレビューでもそう呼ばれていました。
しかしビョルンは「“シティ”という言葉がしっくりこなかった」と語り、地球儀を見て舞台の“島”を探し、ギリシャに決定。
タイトルについても、『マンマ・ミーア!』ほどしっくりくる曲名は他になく、イタリア語ながらギリシャの物語に採用されたのです。
1999年4月6日、ロンドン・ウエストエンドのプリンス・エドワード劇場で初演。
クレイマーいわく、
「観客はすっかり魅了されて、ある批評家は『“マンマ・ミーア!”はプロザック(抗うつ剤)を不要にする』って書いたのよ」。
■ ブロードウェイへの遠回り(A Detour to Broadway)
ブロードウェイもこの作品をすぐに迎え入れたかったものの、制作陣は慎重でした。
なぜなら、ビヨルンは過去作『CHESS』でのニューヨーク・タイムズの酷評と早期打ち切りに大きなトラウマを抱えていたからです。
「俺は“批評されても無傷な状態”になるまで、マンマ・ミーア!をブロードウェイに持っていく気なんてなかった」と語っています。
一方でクレイマーは前向きで、遠回りしてでも挑戦したいと考えていました。
2000年5月にトロントで上演し、同年11月から全米ツアーへ。サンフランシスコ、ロサンゼルス、そして2001年8月にはシカゴへと続きます。
そして、2001年10月5日にブロードウェイでプレビュー開始、10月18日に正式オープン。
9.11直後というタイミングもあり、この作品は“希望と光”を届ける役割を果たしました。
のちに映画でドナを演じるメリル・ストリープも観客のひとりで、10歳の娘ルイーザの誕生日に観劇。
「私たちはみんな、通路でも外の道でも踊ってました…キャストアルバムを買って、2年間ずっと歌ってました」と回想し、キャストに感謝の手紙まで送ったそうです。
「あのとき必要だった“喜びの注入”に、心から感謝してると伝えたかったの」。*カレン・メイソンと『マンマ・ミーア!』オリジナル・ブロードウェイ・キャスト
(写真:ジョーン・マーカス/ニューヨーク公共図書館)。
■ 映画化しよう(Let’s Make a Movie)
やがて映画化の話が持ち上がるも、当初は「人気が落ちてからでいい」と慎重だった制作陣。
しかし、2002年の『シカゴ』映画版の成功を受けて心変わり。
トム・ハンクスと妻リタ・ウィルソンが、自身の制作会社プレイトーンを通じて映画化権を打診。数年の準備と交渉を経て、クレイマーの夢が叶い、舞台版のチームがそのまま映画の制作・脚本・監督に携わることに。
主演にはあのメリル・ストリープが起用され、すべてがぴたりとはまりました。
2008年の映画版は記録的な大ヒットとなり、2018年の続編『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ・ゴー』も同様に成功を収めました。
*映画版『マンマ・ミーア!』にて、クリスティーン・バランスキー、メリル・ストリープ、ジュリー・ウォルターズ
(写真:ユニバーサル・ピクチャーズ)。
■ 世界を巡る旅(World Tour)
1999年のロンドン初演以来、『マンマ・ミーア!』は60か国以上で上演され、20以上の言語に翻訳されました。
初の翻訳版は2002年のドイツ・ハンブルク公演で、5年間で250万人を動員。
その後、イタリア、スペイン、オランダ、韓国、フランスなど世界中で上演されました。
最大のチャレンジの一つが2011年7月の中国・上海公演で、クレイマーによれば「政治的な変化も含め、何年もかけて準備と交渉を重ねた」とのことです。
そして今、25周年記念北米ツアー(投資額425万ドルを13週で回収)の成功を経て、
『マンマ・ミーア!』は2025年8月2日から2026年2月1日まで、長年の本拠地ウィンター・ガーデン・シアターに帰還。
新たな世代にも、「ポップソングとフレアパンツは時代遅れにならない」ということを証明しようとしています。
*レナ・オーウェンズ(リサ役)、エイミー・ウィーバー(ソフィ・シェリダン役)、ヘイリー・ライト(アリ役)──全米ツアーからブロードウェイに登場する『マンマ・ミーア!』のキャスト
(写真:ジョーン・マーカス)。