ABBA 名曲トップ40:35位~31位

35位

「バング・ア・ブーメラン」(1975年)

この陽気なポップ・ナンバーは、もともと1975年ユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表曲として、ベニー・アンダーソンビヨルン・ウルヴァースがプロデュースしていたスウェーデンのデュオ、スヴェンネ&ロッタのために録音されたものでした。

しかしスヴェンネ&ロッタは予選で選出されず、その後、彼らのヴォーカルはトラックから外され、代わってアンニ=フリード(フリーダ)とアグネタの歌声が加えられました。こうして作り直されたこの曲は、1975年のABBAのアルバムに収録されることになります。

ラッセ・ハルストレムによる躍動感あふれるミュージックビデオでは、
ベニー、ビヨルン、フリーダ、アグネタの4人が海辺で激しく口パクをする姿が映し出されます。
そして「バン!」と歌われるたびに、コミック風の映像が差し込まれます(その中には、どうやら無許可と思われるスーパーマンの登場まで含まれています)。

このビデオは、ラッセ・ハルストレムの“即席作品(クイッキー)”のひとつで、
彼のトレードマークである多用されたクローズアップが印象的です。
画面の中で、4人は笑顔を見せ、笑い合いながらパフォーマンスしています。

34位

「マンマ・ミーア」(1975年)

ミュージカルのタイトルにもなったこの楽曲は、ABBAの尽きることのない人気を象徴する存在となりました。
1975年のアルバム『ABBA』に収録された「マンマ・ミーア」は、全英シングルチャートで2作目の1位を獲得し、ABBAを一過性ではない、本物の成功を収めたポップ・アクトとして確立させました。

ミュージカル『マンマ・ミーア!』は、楽曲そのものを物語化した作品ではなく、
ギリシャの島を舞台に、結婚式を控えた娘が、自分の父親かもしれない3人の男性を招待するという、独立したストーリーを持っています。

この舞台作品は、1999年4月6日に初演され、その後も世界各地の劇場で上演が続き、
観客動員数は5,000万人に達しています。

さらに2008年には映画化もされました。
この映画では、ベニー・アンダーソンビヨルン・ウルヴァースエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされ、
ストックホルムのメトロノーム・スタジオにて楽曲を再レコーディング。
歌唱はすべて映画キャスト自身が担当しています。

33位

「悲しきフェルナンド」(1976年)

「悲しきフェルナンド」は、もともとフリーダのソロ曲で、1975年に発表されたアルバム『フリーダ・エンサム(フリーダ・アローン)』に収録されていました。このアルバムは当初、スカンジナビア地域のみでのリリースでした。

楽曲は、ベニー・アンダーソンビヨルン・ウルヴァーススティッグ・アンダーソンによって書かれ、
ABBAの代表曲「ダンシング・クイーン」のレコーディングと同時期に制作されていました。

スウェーデン国内での「悲しきフェルナンド」の人気は急速に高まり、その反響を受けて、
この曲はABBA名義の楽曲としてリリースされることが決定します。
結果として、「悲しきフェルナンド」は1976年3月に全英シングルチャートで1位を獲得し、
ABBAにとって3作目の全英No.1ヒットとなりました。

スウェーデン語詞はスティッグ・アンダーソンが書いていましたが、
英語詞はビヨルン・ウルヴァースが担当。
その際、楽曲の内容は、一般的なラヴ・バラードから、
かつてメキシコ革命に関わっていた2人の元革命家が、屋外で座りながら思い出を語り合う会話形式の物語へと作り替えられました。

このテーマはミュージックビデオにも引き継がれ、
映像では、4人がキャンプファイアを囲み、アコースティック・ギターを手に演奏する姿が描かれています。

32位

「SOS」(1975年)

「SOS」のレコーディング・セッションは、1974年8月末に、
「ターン・ミー・オン」という仮タイトルのもとで始まりました。
アグネタがリード・ヴォーカルを務めたこの曲は、
アルバム『ABBA』からの3枚目のシングル
としてリリースされました。

「SOS」は、ABBAを再びトップ10へと押し戻した楽曲であり、
彼らに『トップ・オブ・ザ・ポップス』出演をもたらしました。
これは当時、ヒットをほぼ確実にする出来事でした。

この曲は最終的に、1975年10月に全英シングルチャート6位を記録し、
2か月間チャートにランクインし続けました。

さらに「SOS」はアメリカでもヒットし、
全米トップ20入りを果たします。

この成功によって、ABBAがユーロビジョン一発屋ではないことは明白となりました。
そして1975年9月、彼らは初のアメリカ・プロモーション・ツアーを実施。
2週間にわたりテレビ出演を重ね、記者たちの取材に応じる日々を過ごしたのです。

31位

「ダンシング・クイーン」(1976年)

「ダンシング・クイーン」は、アルバム『アライヴァル』の先行シングルとしてリリースされ、
ABBAにとって3作連続のチャート1位となりました。発売からわずか2週間で首位に到達し、6週間にわたって1位をキープ、イギリス国内だけで85万枚を売り上げています。

アメリカでは1977年初頭にリリースされ、
これがABBAにとって初めて全米チャート1位を獲得したシングルとなりました。

この曲は、もともと「ブーガルー」というタイトルで構想されており、
当時流行していた
ダンス・リズムから多くの影響を受けています。
具体的には、ジョージ・マクレーの「ロック・ユア・ベイビー」や、
ドクター・ジョンの1972年作アルバム『ドクター・ジョンズ・ガンボ』に聴かれる
ニューオーリンズ風のドラム・グルーヴなどが挙げられます。

この曲が、思いきりファンキーに踊るための楽曲であることを疑いようのないものにするため
スティッグ・アンダーソンは「ダンシング・クイーン」というタイトルとオリジナルの歌詞を考案しました。
その歌詞は、のちにビヨルン・ウルヴァースによって手直しされています。

<続く>

Top 40 ABBA songs

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