私たちの「ABBA名曲トップ40」では、40位から1位までをカウントダウンしていきます……
文:イアン・ラヴェンデール
世界累計のレコード(音源)売上は、推定ではあるものの正確な検証が難しい中で3億枚以上とされ、ABBAは史上最大級のセールスを誇るポップ・バンドのひとつです。その実績は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズと肩を並べるものです。
ビートルズ同様、ABBAのレコーディング・キャリアは比較的短く、わずか9年間にとどまりました。
アバが得意とした耳に残るサビと卓越したメロディ感覚のルーツは、彼らの母国スウェーデンにあります。ベニー・アンダーソンとビヨルン・ウルヴァースが若い頃に影響を受けたのは、中欧・北欧の「シュラーガー音楽」で、これは北欧およびスラヴの民謡に根ざしたスタイルです。
スウェーデン独自のシュラーガーは、印象的なコーラスと大胆な転調を特徴としており、その両方がアバの楽曲の大半に見られます。
時代を超える魅力(Timeless Appeal)
ユーロビジョン・ソング・コンテストでの優勝は、ABBAにとって大きな飛躍のきっかけとなりました。そこからバンドは急速に成長し、作詞・作曲・プロデュースを担ったビヨルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンは、まるでレコーディング・スタジオそのものを楽器のように操る存在となっていきます。
アバの歌声を担ったのは、アグネタ・フォルツコグとアンニ=フリード(フリーダ)・リングスタッドです。
二人の声域は合わせて3オクターブにも及び、ベニーとビヨルンは、彼女たちに対して、母語ではない言語で、非常に複雑なヴォーカル・パートを次々と歌わせました。
アバの楽曲が持つ時代を超えた魅力、緻密なヴォーカル・アレンジ、そして独創的なプロダクションは、何世代にもわたるプロデューサー、ミュージシャン、ソングライターたちに影響を与えてきました。
ベニー、ビヨルン、アグネタ、フリーダの4人は、1973年から1981年までの間に8枚のスタジオ・アルバムを制作しています。
Thank You For The Music
これらのアルバム、そして数多くのベスト盤は、
流行やファッション、キラキラしたブーツ、引き締まったヒップ、そして結婚生活の破綻さえも超越する、時代を超えたポップ・ソングの宝庫です。
結局のところ、ABBAが本当に大切にしてきたもの――
それは音楽なのです。
さあ、カウントダウンを始めましょう!
40位
「リング・リング」(1973年)
作詞・作曲:ベニー・アンダーソン、ビヨルン・ウルヴァース、ABBAのマネージャーであるスティッグ・アンダーソン
「リング・リング」は、もともと「クロックロート(時計の旋律)」というタイトルでした。
この3人は、1973年ユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表候補曲として提出する楽曲の制作を依頼されていたのです。
その後、ニール・セダカとフィル・コディによって英語詞が付け加えられ、曲は現在知られている「リング・リング」となりました。
スウェーデン版ユーロビジョン予選であるメロディフェスティバーレンの時点では、4人はまだABBAという名前を名乗っておらず、
「ビヨルン&ベニー、アグネタ&アンニ=フリード」という名義で出演していました。
当時、アグネタ・フォルツコグは妊娠9か月。
万が一出演できなくなった場合に備えて、フリーダ(アンニ=フリード・リングスタッド)は、自分のパートだけでなく、アグネタのパートも覚えていたといいます。
最終的に審査員は別の楽曲をユーロビジョン代表に選び、「リング・リング」は3位に終わりました。この結果には、スウェーデンのマスコミから大きな批判の声が上がりました。
しかしこの曲は、その後スウェーデン国内で1位を獲得。
そして間もなく――ABBA(後にそう名乗ることになる彼ら)は、ここから本格的に世界へと歩み出したのです。
39位
「恋のウォータールー」(1974年)
スティッグ・アンダーソンから「1974年のユーロビジョン用の曲を書くように」と指示を受け、
ベニー・アンダーソンとビヨルン・ウルヴァースは、ヴィッグソ島にあるビヨルンの別荘で、この曲の基本となるトラックを作り上げました。
その後、このデモはスティッグ・アンダーソンに渡され、彼が歌詞を担当します。
当初のタイトルは「ハニー・パイ」でしたが、この案はすぐに却下され、どの言語でも同じ意味を持つ言葉である「恋のウォータールー」に変更されました。
ちょうどこの頃、ユーロビジョンでは「各国の母語で歌わなければならない」という規定が撤廃されたばかりでした。
そのため、ABBAはスウェーデン代表曲を英語で披露することが可能となったのです。
イギリス・ブライトンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1974は、
ABBAが視覚面でも本格的に弾けた最初の舞台となりました。
インガー・スヴェンネケがデザインしたきらびやかな衣装は強烈な印象を残します。
さらに、アレンジャーのスヴェン=オロフ・ヴァルドフは、
ナポレオンに扮した姿でオーケストラを指揮し、演出面でも大きな話題を呼びました。
38位
「ハニー、ハニー」(1974年)
アルバム『恋のウォータールー』は、当時のABBAが、まだ「自分たちはどんなバンドなのか」を完全には掴み切れていなかったことを示しています。
収録曲の半分は、ビヨルンやベニーが歌う定型的なロック・ナンバーで、現在私たちがよく知るABBAのサウンドとはあまり似ていません。
それに対して、当時のABBAらしい“シュラーガー”スタイルがより色濃く表れているのが「ハニー、ハニー」です。
この曲は、アグネタとフリーダ**が歌う楽曲のひとつで、ユーロビジョン候補になっていてもおかしくない出来でした。
イギリスでは、出版権をATVミュージックが所有していましたが、
ABBAがこの曲をシングルとして発売しないと知ると、
スウィート・ドリームズという男女デュオを結成し、カバー盤を制作します。
このスウィート・ドリームズ版は、1974年7月に全英チャート10位まで上昇しました。
一方、ABBAのオリジナル版は、アメリカでは「恋のウォータールー」に続くシングルとしてリリースされ、全米27位を記録。
これは、全米68位にとどまったスウィート・ドリームズ版を上回る成績でした。
37位
「落ち葉のメロディ」(1974年)
「落ち葉のメロディ」は、最初はアルバム『恋のウォータールー』に収録され、その後、1980年のアルバム『グラシアス・ポル・ラ・ムシカ』のためにスペイン語版として再録音されました。この曲は、1974年のユーロビジョン・ソング・コンテストにおけるABBAの代表曲候補として、かなり有力な存在でした。
当時ユーロビジョンで好まれていたのは、感情豊かなスロー〜ミディアムテンポのバラードで、ヨーロッパ的な旋律を持つ“シュラーガー”スタイルの楽曲でした。「落ち葉のメロディ」は、そうした直近の優勝曲の流れに非常によく合致した作品だったのです。
歌詞を書いたのはスティッグ・アンダーソン。彼は当時、カナリア諸島ラス・パルマスで休暇を過ごしており、そこで日常的に使われていた
「アスタ・マニャーナ!(また明日)」
という言葉から着想を得ました。
この曲は主にアグネタがリード・ヴォーカルを担当しています。しかし、ユーロビジョンがもたらす圧倒的な露出効果を考慮した結果、4人組としてのABBAを最も強く印象づける楽曲として、最終的に「恋のウォータールー」の方が適していると判断されました。
36位
「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」(1975年)
1975年、「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」がオーストラリアのチャートを上昇し始めた頃、同国の音楽番組『カウントダウン』(イギリスの『トップ・オブ・ザ・ポップス』に相当する番組)が、RCAオーストラリアに対し、放送用の映像クリップがあるかどうかを問い合わせました。
すると番組側に届けられたのは、「アイ・ドゥ…」のビデオだけではありませんでした。
なんと、
「マンマ・ミーア」「バング・ア・ブーメラン」「SOS」
のプロモーション映像まで一緒に提供されたのです。
これら4本のビデオは、1975年4月にラッセ・ハルストレムによって撮影されました。
制作スピードは驚異的で、1日2本という超ハイペース。
しかも総制作費は、わずか5万クローナ(約5,500ポンド)(※)という極めて小規模なものでした。
当時のオーストラリアのテレビは、ようやく全面カラー放送へ移行したばかり。
そのタイミングで大量に放送された、低予算ながら明るく親しみやすいハルストレムの映像演出は、視聴者の目に強く焼きつきました。
その結果、ABBAはオーストラリアで最も人気のあるアーティストへと一気に駆け上がることになったのです。
※5万クローナ(50,000 SEK)は日本円でいくら?
- 現在の為替レート(概算)
1スウェーデン・クローナ ≒ 14~15円
👉 50,000クローナ ≒ 約70万~75万円
補足(時代背景として)
1975年当時の話ですが、
当時の正確な為替レートで換算するのは資料によって差が大きいため、
音楽史・記事解説では 「現在価値で約70万円前後の超低予算」
と説明するのが一般的で、意味合いとしても正確です。
つまり、
4本のプロモーション映像を、現在の感覚で約70万円程度の総予算で制作
→ 1本あたり 20万円弱
という、驚異的な低予算だったことがポイントです。
<続く>






