スパンコールをまとった4人のスウェーデン人が、世界的なポップ・アイコンになるとは、かつては考えにくいことだった。新たに出版された伝記が、彼らがいかにして遍在的な存在となったのかを描いている。
*ビヨルン、ベニー、アグネタ、フリーダが、1979年にロッテルダムでパフォーマンスを行なう。写真:ロブ・フェルホルスト/Redferns/Gettyより。
今この瞬間にも、世界のどこかでABBAの楽曲が流れているに違いない。「Gimme! Gimme! Gimme!(ギミー!ギミー!ギミー!)」のリミックスが地中海の島のクラブで鳴り響き、「Happy New Year(ハッピー・ニュー・イヤー)」がベトナムの食料品店で流れ、スペイン語版「Knowing Me, Knowing You(ノウイング・ミー、ノウイング・ユー)」がメキシコのラジオ局でオンエアされている。
ライブパフォーマンスも絶えない。カラオケバーや『マンマ・ミーア!』の舞台だけでなく、たとえば日本の川崎で朝、広場で30人を前にトリビュートバンドが演奏し、ヨハネスブルグでは夜、別のバンドが満員の劇場で演奏しているかもしれない。世界的な有名トリビュートバンド「Björn Again(ビヨルン・アゲイン)」は、ウラジーミル・プーチンから公演依頼を受けたと主張している(クレムリンは否定している)。ロンドンでは、本物のABBA…いや、等身大ホログラムの“ABBAtars”が生バンドと共演する専用アリーナ公演も行なわれている。
これはポップのヴァルハラ(神々の殿堂)における「アフターライフ」のようなものだ。ABBAは、ソングライター兼プロデューサーのビヨルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソン、そしてボーカルのアグネタ・フォルツコグとアンニ=フリード・リングスタッド(フリーダ)によるグループだが、1972年から1982年という10年間の活動期よりも、今日の方が遥かに影響力がある存在になっている。メンバー同士の結婚と離婚を経ても音楽を作り続けたABBAは、1974年のユーロビジョン・ソング・コンテストで「恋のウォータールー」で優勝してから、世界中のポップチャートを席巻した。
1977年のオーストラリア・ツアーを追った映画『ABBA: The Movie』には、汗だくの「ABBAマニア」たちが押し寄せる様子や、記者に詰め寄られる場面が映されている。
「ダサい」というレッテル
それでも、ビートルズのように評価を確立することはABBAには難しかった。ロック評論家や一部のリスナーにとって、彼らは「アーティスト」ではなく「職人」に過ぎなかった。最悪の場合、特に母国スウェーデンでは、”大衆迎合のポップ商人”と見なされていた。ある批判的アーティストは、スウェーデンの缶詰会社「ABBA」にかけて「缶詰のニシンのように死んでいる」と揶揄した。
80年代のABBAは”音楽的荒野”をさまよい、メンバーたちはパッとしないソロアルバムや、『CHESS(チェス)』といった不発のプロジェクトに取り組んでいた。1989年、解散から7年後、ABBAの楽曲出版社「Sweden Music」はポリグラムに売却され、そのカタログは「安定しては売れるが、控えめな売上」にとどまると予想されていた。
再評価の始まり
しかし1990年代、ABBAの運命は一転する。1992年のベスト盤『ABBA Gold』が大ヒットし、商業的にも”クールな存在”としても再評価されたのだ。
同年、U2がビヨルンとベニーをステージに呼び、「ダンシング・クイーン」を一緒に披露。ブリティッシュ・エレポップデュオのErasureはABBAカバーEPをリリースし、なんとカート・コバーンは「Björn Again」をNirvanaと共にReading Festivalに出演させた。
この頃から、英語圏でもABBAに関する書籍が相次いで登場する。スキャンダラスな伝記『ABBA: The Name of the Game』や、アグネタの自伝翻訳、決定版伝記『Bright Lights, Dark Shadows』などが刊行され、さらにファン回想録や1曲ごとの分析書、学術的論考『Fernando』に関する著書まで出版されるようになった。
グラードヴァルの新著『The Story of ABBA』
この群雄割拠の中に、ヤン・グラードヴァルの新著『The Story of ABBA: Melancholy Undercover』が加わった。しかしこの本は、いわゆる伝記ではない。グラードヴァルは、バンドの生い立ちや遺産にフォーカスした自由な形式を選んでいる。
彼のスタイルは断片的かつエピソード重視で、たとえば『マンマ・ミーア!』誕生の経緯や各メンバーの紹介──ベニーは旋律の泉、ビヨルンは内省的な探究者、アグネタは気乗りしないスター、フリーダは悲しみを抱えた完璧な歌声の持ち主──が、スウェーデンの音楽社会学的背景のコラムと共に紹介されている。
スウェーデン特有のロカビリー文化「ラッガレ」や、「ダンスバンド」(ホーン中心の様々なスタイルを演奏する野外舞踏会バンド)など、背景文化の紹介もある。アグネタとフリーダも最初はダンスバンドで歌っていた。たとえば「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ(I Do, I Do, I Do, I Do, I Do)」などには、その音楽的伝統が活きていると彼は語る。
世界の片隅から生まれた普遍的ポップ
90年代のリバイバル以降、ABBAの音楽はあまりに普遍的なポップとなり、「どこから生まれたのか」を忘れてしまいそうになる。しかし、彼らの出発点はごく限られた音楽文化だった。
1970年代初頭、スウェーデンからスパンコール姿で世界の頂点に到達するとは想像もできなかった。当時のスウェーデンは音楽輸出国としては無名で、国内ではドイツ風のシュラーガ(歌謡曲)やフォークソングが主流だった。
アンダーソンはABBA以前、Hep Starsというガレージロックバンドでキーボードを担当しており、彼らのヒット曲「Cadillac」はアメリカの曲のイギリス経由のカバー。元曲とは異なるマイナー調のアレンジで、スウェーデンでは大ヒットしたが、世界的成功には至らなかった。
独特の翻訳性=ABBAの秘密兵器
この「翻訳の誤差」が、ABBAにとっての隠された強みとなった。「恋のウォータールー」は、まるで誰かがロックンロールを断片的に記憶し、それを頼りに再構築したような楽曲だ。
陽気なシャッフルビートと明るいコード進行は安心感を与えるが、プレ・コーラスで突然マイナーコードに変化し、ベニーのマーチのようなピアノフレーズが曲をより深く、古風な方向へ導いている。
歌詞も然り——「My, my! At Waterloo Napoleon did surrender / Oh yeah! And I have met my destiny in quite a similar way」といった、まるでESL(第二言語としての英語)学習者が書いたような英語。だが、そこには遊び心とスタイルの模倣があり、”非本格的”と批判されたその要素こそがABBAの魅力なのだ。
ABBAのアルバムには、様々なジャンル実験が満載だ。たとえば「リング・リング」にはシャンソンの要素があり、中期にはグラムロックやプログレッシブ・ロック、後期にはディスコの影響が色濃く、さらに「シュロの木のそばで(Sitting in the Palmtree)」や「ハッピー・ハワイ(Happy Hawaii)」のようなトロピカルナンバーもある。
バンド名が決まる前、彼らはキャバレー形式のバラエティ・ショーを行なっていたこともあり、その精神は今も彼らの音楽の中に息づいている。
https://www.newyorker.com/books/under-review/the-world-that-abba-made