ABBAのフリーダ──知られざる物語と、彼女がスターへと登りつめるまで
ヒット曲「ザ・ウェイ・オールド・フレンズ・ドゥ」で ABBA が歌ったように、アンニ=フリード・リングスタッド──数百万人に “フリーダ” として知られる彼女の人生は、「喜びの時も、悲しみの時も」満ちあふれた波乱万丈の物語だった。
その人生はあまりにも劇的で、バンド仲間のビヨルン・ウルヴァースは「彼女の物語だけで、完璧に舞台やミュージカルになる」と語ったことがある。
“4人の中で、フリーダが最もドラマチックな人生を送ってきた。” と彼は言う。
“彼女の人生は典型的な〈ラグズ・トゥ・リッチズ(どん底から成功へ)〉の物語だ。私はそのシーンやクリフハンガーが目に浮かぶよ。”
今、アイコン的ヒットメーカーであるフリーダが 80歳 を迎えた今、Woman’s Day は彼女の驚くべき人生を振り返る。その物語には、まるで ABBA のバラードのようにいくつものクレッシェンドがある……
Childhood trauma(幼少期の悲劇)
1945年、ノルウェーのビョルコーセンで生まれたフリーダの悲劇は、彼女の若き母シンニが、ナチス占領時に駐留していたドイツのSS将校アルフレッド・ハーゼの子を身ごもったところから始まった。
ハーゼがドイツへ帰還する途中で死亡したとの噂が広がると、シンニは「戦争の子」の父親を町の人々に知られ、激しく非難され、疎外されてしまった。
母娘は憎悪から逃れるためにスウェーデンのエスキルストゥナへ移住した。しかしその後間もなく、シンニは腎不全で 21歳 の若さで亡くなり、フリーダは祖母に育てられることとなった。
Her talent show win!(才能ショーでの勝利!)
幼い頃から音楽の才能を見せていたフリーダは、22歳のとき、夫ラグナル・フレデリクソンとの間に子ども(ハンスとアン・リセ=ロッテ)がいる身で、1967年にテレビのタレントコンテストに出場し、優勝した。
優勝の賞品は EMI とのレコード契約で、その後ソロアルバム『Frida』をレコーディングした。
彼女の人生が永遠に変わるのは 1969年──スウェーデンのロックバンド「ヘップ・スターズ」のメンバーとして有名だったベニー・アンダーソンと出会い、友情を育んだときだった。
ABBA is born!(ABBA誕生!)
やがてフリーダはアグネタ・フェルツコグとその夫ビヨルンとも出会い、ベニーを加えた4人で ABBA を結成。
1974年、「恋のウォータールー」でユーロビジョンに出場し優勝──世界中に何百万人もの新しいファンを獲得した。
フリーダはこう振り返る。
“まったく信じられない出来事だったわ!
エスキルストゥナ出身のバンドボーカルだった私が、BBC にもヨーロッパ中の大手新聞にも囲まれて、インタビューを求められるなんて。”
バンドが驚異的な成功を収める一方、フリーダの私生活は崩れ始めていた。
ラグナルとは離婚し、さらに「死んだ」とされていた父が突然現れ、関係を築こうとしたのだ。
Divorce curse(離婚の呪い)
1982年までに、ABBA の圧倒的成功と、特にフリーダとアグネタの不仲が囁かれたこともあり、4人は精神的に追い詰められていった。
2組の夫婦は離婚し、グループの継続を試みたものの、その痛みは歌でごまかせるものではなく、バンドは活動休止となった。
フリーダはバンド解散についてこう語る。
“たくさんの涙、たくさんの話し合いがあったわ。
でも後戻りはできなかった。別れることが必要だった。”
10年も経たないうちに、さらに悲しみが襲う──フリーダが疎遠だった父が89歳で亡くなったという報せが入ったのだ。
Double tragedy(二重の悲劇)
その後、フリーダの恋愛は三度目の正直となった。1992年、彼女はスイス貴族 ハインリッヒ・ルッツォ・ロイス公 と結婚した。
しかし幸福は長く続かず、フリーダには想像を絶する悲劇が襲いかかる。
1998年、彼女の娘アンが 30歳 の若さで自動車事故により亡くなった。
さらに翌年、夫ルッツォ公が 49歳 で癌のため他界した。
フリーダは深い悲しみについてこう語る。
“信じられる何かが必要だったの。そうでなければ、とても耐えられなかったわ。
喜びを取り戻すまでには本当に長い時間がかかった。数えきれないほどの悲しみで……。とても困難な旅だった。”








